(うちなぁ点描 第297回 週間かふう Vol.351  2012年6月22日 掲載)

文と絵 平良 和繁 TAIRA KAZUSHIGE

平和の礎と沖繩平和祈念堂

今年は例年より梅雨入りが早く、梅雨冷えの肌寒い日が続き、例年とは違う気候に体も参ってしまいそうですが、毎年6月になると思い出すこと。それはやはり日本軍の組織的戦闘が終わったとされるの「慰霊の日」です。

慰霊の日というと、数年前に拝聴した「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの講演会を思い出します。具志堅さんは30年程前から、沖縄の地に眠る、戦争で亡くなられた方々の遺骨収集をされています。身元が判明できた遺骨、遺品はできる限り、沖縄は元より、日本各地のご遺族のもとへ帰すことを目的に活動されているそうです。

その講演会の開催前に、当時、具志堅さんが遺骨収集されていた那覇市真嘉比の発掘現場を見学することができました。この地域は沖縄守備隊の司令部がある首里城の防衛線として、日本軍と米軍が激しい攻防を繰り返した場所でした。現場周辺は重機による造成工事が進んでおり、那覇の街並みが見渡せる造成中の小高い丘がその発掘現場でした。その丘の斜面に一人の日本兵の遺骨が体を丸くして横たわっていました。その側には真ちゅう製の信管付き手りゅう弾や、陶器でできた手りゅう弾もありました。私はその光景に言葉を失い、日本兵の遺骨にただただ、手を合わせることしかできませんでした。

その後の講演会で、今まで沖縄県内各地のガマ(洞窟)などでの、遺骨収集現場の様子がスライド写真で説明されました。実際に見学した真嘉比の発掘現場の遺骨と重なり、沖縄の地には未だ数多くの遺骨が眠っていることを知り、終戦後、数十年経った今もなお、戦争の痕跡が根強くこの沖縄の地に残っているのが肌で感じられました。

 このような遺骨収集場所は戦時中の避難場所だったガマなどに多く、ガマが避難場所でありながら、集団自決、日本兵による民間人の惨殺などの悲劇を生んだ場所でもあったことは、沖縄戦関連の本、沖縄戦を題材にした映画、戦争で生き残った方々のお話や学校の授業等でも学び、子供の頃から覚えていました。また、私が建築を学び始めた頃、授業で建築(住む場所)のはじまりは雨や嵐から身を守るシェルターとして、人間が洞窟(ガマ)に身を隠したのが始まりだと教わったのも思い出しました。

この具志堅さんの講演会が開かれた糸満市摩文仁は、沖縄戦最後の激しい戦闘が行われ、多くの尊い命が失われた場所です。しかし、同時に、この激戦地一帯にあるガマは約8万人もの命を守った場所でもあったのです。沖縄戦関連では沖縄戦跡国定公園内の平和の礎に刻まれている刻銘者数24万余の方が亡くなりましたが、このように身を守るシェルターとしてのガマで多くの方が助かっているのも事実です。

戦後67年が経ち、戦争生存者 戦争体験者もお年を召しましたが、その方々の子、孫に、この沖縄は引き継がれています。ガマフヤーの具志堅さんの遺骨収集の現場のように、戦争当時の傷跡が今でも、そのままの状態で存在する事実。また、沖縄に米軍基地が存在する事により戦争の影響は戦跡以外でも残っています。

今年はアメリカ統治下にあった沖縄が日本に復帰して40年。この節目の年、今を生きる私たち子孫ひとりひとりがこの戦争をどう捉え、受け止め、そして行動するのか。新たな世代にどのように沖縄を伝えていくのかが、何よりも戦没者へ慰霊となり、この日を迎える意味につながると思います。

私は、この思いを胸に6月23日「慰霊の日」を迎えたいと思います。