(うちなぁ点描 Vol305 2012年8月24日 掲載)
文と絵 平良 和繁 TAIRA KAZUSHIGE
国際通り、県庁前のシーサーのスケッチ
子供の頃にはありませんでした。
もし、子供の頃にシーサーがあれば登って遊んでいました。
私は映画館に年間数十回は足を運び、桜坂にある映画館のファンクラブ会員になるほどの映画好きであります。月に一度、会員に送られてくる上映スケジュールに目を通して、「これは面白い作品が上映しているぞ」と、忙しい中、時間を作って映画を観に行っています。
いつものように駐車場から映画館に向かう途中、国際通りを渡っているとき、ここでよく遊んだ子どもの頃のことをふと思い出しました。
30年ほど前の話になりますが、小学生だった私の足でも歩いて遊びに行けるほど国際通りの近所に住んでいたので、休みになれば通り沿いのデパート巡りをしていました。最初のルートは沖映通りにあったダイナハ、三越、山形屋、リウボウの順に、当時流行っていたガンダムプラモデルの新作はないか発掘しに行きました。高校生になると、バス通学路として、高校卒業後に上京するまでは、毎日のように国際通りを通り、生活領域の一部になっていました。
そういえば、私が生まれる以前の国際通りは、どんなだったのか? この機会に国際通りの歴史を調べてみることに。昭和初期に、旧那覇市中心部と当時の首里市を結ぶ県道として整備された郊外の一本道で、畑や湿地帯が広がっていたそうです。戦後、米軍によって那覇中心地を接収され、人々は行き場を失いましたが、壺屋地区の窯業職人が入市を許可されたのをかわきり皮切りに、他の市民たちも入市し、カーブ川や通り沿いに居ついたのが始まりで、その後、自然発生的に闇市が広がったそうです。
また国際通りの名前の由来は、通り沿いに戦後すぐに建てられた「アーニーパイル国際劇場」という映画館にちなんで「国際通り」の名が定着しました。
この映画館があった場所は、現在のてんぶす那覇付近で、以前は国際ショッピングセンターがあったのを覚えていて、この付近の移り変わる歴史が分かりました。
この歴史をみていると、学生時代に都市計画の先生の言葉が思い浮かびました。建築の集合体である都市は、まず中心(コア)となる場所があり、ヨーロッパでは教会や広場、本土では城下町などがあることから城など、中心になるものから発展して都市が造り上げられていると講義で教わりました。
この国際通りも名前の由来の国際劇場周辺を中心に発展し、現在では、てんぶす(方言で中心、おヘソの意味)那覇へと変化し中心(コア)としても受け継がれているようです。
この国際通りは戦後の復興の象徴として、“奇跡の一マイル”と称されました。現在では郊外に駐車場を確保した大型ショッピングセンターに移行し、また旧歓楽街の桜坂もかつての賑わいはなくなりました。しかし、十年程前のモノレール開通などもあり、観光客相手のお土産店が増え、桜坂周辺の古い空き店舗も若者向けのカフェやクラブ、飲食店などに姿を変え、新たな賑わいを見せています。沖縄人の憩いの場から、観光客で賑わう町、沖縄の顔、「国際通り」へと変化しました。
私が生きている間にこの国際通りがどのように変化していくか、見ているのを楽しむと同時に、建築の集合体「都市」の器を造り上げるのも、我々建築を造る者が未来を見据える力を発揮しなければ都市はどのようになるのか・・・。この国際通りにヒントがあるのかもしれません。